Sweet Heaven Photograph & Words.
5.霧夜語

 春の夕暮れ、というより、宵の口の頃。徐々に空が真紺を深めて行く。湖の対岸に浮かぶ山並みの稜線に沿って、沈み行く日の光が赤く残っている。その上には紫色に染まりつつある雲が細長くたなびいていた。
 「何もない湖なんですよ」
 車を運転しながら主人は言った。車は主人と彼を乗せて、湖沿いの県道を上って行く。ワンボックスカーの広い窓には紫色の空と、辛うじて残っている赤い稜線が大きなパノラマになって写し出されていた。
 「でも奇麗な景色があるじゃないですか」
 彼は外の景色を眺めながら答えた。
 「ええ、本当にそれだけです。珍しい生き物がいるでもなし、大きな観光地があるでもなし。温泉があって、東京からの便が良くて。奇麗な景色があるだけ、ただそれだけです」
 主人はうれしそうだった。彼にはそれが分かるような気がする。何もない贅沢。自然から与えられた物だけを感じる贅沢は何事にも代え難い。
 「ご夕食、少しお時間を頂ければ地のものでご用意させていただきます。もしお急ぎでしたらサンドウィッチとかピラフとかお召しあがりいただけますが、いかが致しましょう?」彼は予約のない飛び込みの客なのだ。
 「この時間に突然ですから、ご都合の良いほうで結構です」
 「大丈夫ですよ。ご予約頂かないお客さまも多いですから。それにうちは自分のところの池で女魚を養殖してますので、それをお出ししているんです。ただ、今日はほかのお客さんのご夕食を仕込んでしまいましたので、ちょっと時間がかかりますけれど」
 主人『はははっ』と笑いながら答えた。
 「養殖もやっておられるんですか?女魚?聞きませんねぇ」
 「この辺りではマスのことを女魚っていうんですよ。うちでやっているのは女魚と岩魚です。女魚はムニエルやフライにすると旨いですし、岩魚はアライか塩焼きですね。お客さんは日本酒ですか、それともビールですか?」
 「私はビールですね。今日は暑かったので特にビールを飲みたい気分です」
 「よい地ビールがあるんですが、それとフライや塩焼きがよくあいます。ビールもいっしょにご用意いたしますので、温泉にでも入っていてください。風呂上がりの一杯は最高ですよ」
 気持ちよく主人に乗せられたな、と彼は思ったが、同時に期待に胸を高鳴らせた。
 車はしばらく走ると白い瀟洒な建物の前で止まった。車を降り、玄関へ招きいれる主人の後を、彼も敷地の中へ入っていった。その視線の先には石碑のようなものが見える。夕暮れの薄い闇の中、街灯に照らし出されるように、そこだけが白く浮かんでいた。たもとには花が飾られ、何かを奉ってあるように見える。「姫塚」、そう書かれているようだ。
 彼を部屋に案内してくれたのは主人のつれあいと思しき女性。「いらっしゃいませ」とちょこんとお辞儀しながら、小さな笑顔で迎えてくれた。しなやかに長いジーンズと白いシャツが良く似合うショートヘアーの細身のひとだ。彼は彼女に聞いてみた。
 「道路の向かい側に『姫塚』っていう石碑みたいなものが見えましたけれど、あれは何ですか?」
 彼の前を歩きながら、彼女はきゃしゃな体を振り返らせて答えた。
「戦国時代のお姫様のお墓だそうです」
「有名なお姫様なんですか?」
「いえ、詳しくは知りませんけれど、このあたりの者は大事に奉っています」
 一旦話を止め、再び階段を上りはじめると彼女は言葉を続けた。
「合戦で亡くなった許婚を追って、あの辺りから湖に身を投げたそうです。それで魚になって向こう岸の合戦場まで渡っていったという伝説を聞いたことがあります。地元でもそれほど有名な話ではないのですが」
『ありがちな話だな』と彼は思ったが、敢えてそれを話しはしなかった。
 彼が通されたのは、二階の一番奥の角部屋。窓からは湖を眺めることが出来た。はめ殺しのガラス窓はブラインドが上げられた状態で、先ほどまで赤みを残していた対岸の山の稜線が、今にも見えなくなりそうなくらい、ほんの少しだけ光を残している様子が見えた。その手前には先程車を降りたガレージも視野に入り、もちろんその向こうには「姫塚」も見える。
 彼は背負っていた荷物をベッドに放り投げ、窓際の作り付けのテーブルに誂えられた椅子を引き、投げ落とすように自分自身の全体重をそこに預けて腰掛ける。瞬間的に密着した彼の体を、その柔らかい感触が包み込んだ。部屋の壁が電球の温かいオレンジ色の光を映し出している。十分に太陽の光で干された布団の匂いだろうか?清潔感のある優しい香りがした。今日は良く歩いた日だった。体中に蔓延した一日の疲れが、ゆっくりと彼の目を閉じさせた。ため息と同時に、姫塚のさらに向こう側、湖の波打際に白い人影を見た。誰もいない闇の中に一人だけ湖を眺めるその存在を、不思議となんの抵抗もなく受け入れることが出来た。それは彼がその姿をどこかで見たことがあったからかもしれない。
 彼女の着ている衣が街灯の光を反射して漆黒の視界に浮かぶ。じっと湖を見つめる後ろ姿、彼女の長い髪が水面を渡る風に流れる。窓は開かないはずなのに、彼の頬を、湖を渡り彼女の髪を流した、その同じ風がかすめて行く。『甘い香り』彼はそう感じた。大きく息を吸い込み、胸一杯に風を貯めた。その空気の中からは懐かしく、そして心の底から安心する甘い香りが、ほんの少しだけ感じられた。『花の香りかな、それとも髪の香りだろうか?』風の音が彼女の息遣いも運んでくる。細く白い女の小さな鼓動まで聞こえてくるような静寂の中、彼女は音もなく彼の横に立ち、そして耳元で語りかけた。
「もう日が沈んでしまいました。でも私には今日中に会わなくてはならない人がいるのです」風に煽られ、彼女の髪が彼の全身を舐めるように舞う。
 どこからか薄桃色の花弁が彼女の髪の上に落ち、雪のように解けて、少しだけ髪を濡らす。よく見ると街灯の光が届く限り、白い斑点が水面に広がっていた。
「お願いです」
そう言うと彼女は彼の手を取り、涙を流した。その手はとても滑らかで、それでいて柔らかい感触を覚えた。彼女の涙が彼の手に落ちた、ように思えたのだが、それは風に飛ばされてきた花弁だった。それでも彼女はやはり泣いている。うつむきかけたその顔をあげると、閉じていた目を開け潤んだ瞳で彼の目を見つめた。彼女は細く小さな声、そしてとてもきれいで透き通るような声で言葉を続けた。
「お願いです。私を湖の向こう岸までお連れください。もしもこの願いを叶えて頂けたのなら、お礼にあなたさまの望むものを差し上げます」
流す涙は頬に伝うことなく風に吹かれ、湖に舞い落ちる。それは途切れることなくひたすらに流れ、舞い、湖へと流されて、そしていつのまにか湖面は一面に白い花弁で覆われていった。
「私はあの方のお側にいなくてはならないのです。後生です。私をお連れ下さい」
ひどく悲しい声。どこかで聞いたことのある声。でもその声が悲しみを湛えていた記憶はない。遠くの記憶だろうか、それともごく近い記憶だろうか。分かっているのにどうしてもたどれない記憶の向こう側に、彼女の寂しい瞳が見えた気がした。しかしその時突然、自分とは違う自分が突き刺すように鋭い声で叫んでしまった。
「君の髪は短かったはずだ!」
『どうしてそんな事を言ってしまうのだろう?』と思う間もなく、絵物語のように時間が彼の周りを進んで行く。また、その大声も彼女の耳には届いていないようにさえ思えた。彼女は何事もなかったかのように、小さな声を途切らせることなく彼に語り続けた。
「私を向こう岸までお連れ頂ければ、あなたさまのお望みになる姿となり、あなたさまのお側に寄り添いましょう。後生です私をお連れ下さい、私を向こう岸までお連れ下さい、あなたさまにしかお願いできないのです」
彼女が願いを繰り返すごとに、風がゆれて空気が白く霞む。先ほどまでは湖の手前しか照らし出していなかった弱い光が、今では視野全体を真白く染めてしまっている。その中で彼女の黒髪だけがゆらゆらと風になびき、潤んだ瞳が宝石のような涙をこぼしていた。しかし、霞む視界とは裏腹に、すぐ側に立つ女の息遣いや鼓動、更に彼の身体全体がその体温さえ強く感じはじめていた。彼女の両手は彼の両手を包み込むように強く握り締め、そして胸に押し当てているようだ。そして絡む4つの手を吐息で暖めるように、艶やかに光る赤い口唇から悲しくも柔らかい声で言葉が続く。彼の目を見上げるようにする上目遣いの女がそこにはいた。場を満たす花のように甘い香りを、彼は無意識のうちの女の髪の香だと信じていた。どこまでも懐かしい香りと声とその姿。彼の五感のすべてが心地よい感覚を覚えたが、その温もりだけは思い出す事は出来ない。どうしても覚えていない。思い出そうとしているのか、その心地よさを我が物にするためか、気がつくと彼も強く手を握り締めていた。それでも彼の熱い本能の衝動は抑圧されていた。『自分は何をしているのだろう。なぜその願いを聞きいれないのだろう?』身体が言うことを聞かなかった。どうしてもその手を放し、身体全体で温もりを味わうことが出来なかった。そうしたい自分がいるのに、それが他人の身体であるかのように動こうとはしない。理性で押さえられている訳ではなさそうだ。ただ自由が効かないというもどかしさ。

 何の前触れもなく、遠くからエンジンの轟音が近づく。そして音が直近を通過した後、やや低い音が尾を曳き、やがて消えていった。
 彼は突然、すべてを失った。

 日常の意識が戻り、彼の瞼を再び押し上げる。彼に目に卓上のデジタル時計の緑色の電飾が映り、彼の網膜に次第にはっきりと意味のある数列を結像させた。その情報が脳内の時間を司る部位まで伝えられたとき、目をつぶる前との記憶の差が少ないことに気付いて、彼自身の心がようやく現実の空間に帰ってきた。
 肩で大きく息をする。部屋に漂う残り香。

『奥さんのシャンプー、多分同じなんだ・・・』